(世 界 の 歴 史 を 振 り 返 る )
歴史を学ぶ視点について
未だ、西欧列強の不平等条約からも解放されていなかった日本が、米・英・仏・露を中心とする列強のアジア侵略の一角にその力関係に助けられて入り込み、アジアの一員でありながらアジア(中国・朝鮮)と敵対し、朝鮮半島と中国大陸の植民地支配で、日本帝国主義として膨張していった過程を総括することは極めて今日的なテーマである。
英国の歴史学者、E.H.カーは「歴史とは何か」(岩波新書・1960・12)で、「すべての歴史は現代史である」というクローチェの言葉を引用しながら「もともと歴史と言うものは、現代の問題に照らして過程を見る所に成り立つものである」(同・25頁)と指摘している。過去をゆがめたり、現実政治に歴史を都合良く利用することを意図的に行う為政者も多く、またそれを「学術的に」補完する歴史学者や、知らず知らずの内にその多くの読者に]天皇制国家をナショナリズムを浸透させている「歴史作家」もいる。「何らかの意味で尚現在に生きている過去」(E,H,カー)が、歴史家の研究する「過去」であるとすれば歴史家や歴史作家の責任は重大である.
姜尚中(東京大学大学院教授)は、「在日からの手紙」(大田出版・2003)の中で、最近の日本の世論の動向について「歴史の忘却が(日本人の)ナショナリズムを増幅させている」と警告している。付け加えれば、「忘却」と「国家主義」に沿った歴史解釈が、民衆を取り込んで浸透しつつある.日本の為政者が叫び始めた「愛国心」は歴史を辿れば解ることだが、つまる所は人の心まで国家が管理するという意味である.この「ナシナリズム」は、天皇制明治政府によりアジアへの侵略と植民地支配の中で利用され、昭和に入って、15年戦争の中で、治安維持法(死刑法)と天皇制警察体制の下で押し付けられてきたものだ。従って日本人のこの「ナショナリズム」なるものが、誰に向かって、どのように「発揚」されてきたのかを知るためには、朝鮮・江華島事件から始まる、日本のアジア侵略の歴史研究が必要なのではないだろうか。
(1) 海野福寿著・「韓国併合」を読む
明治政府によるアジアの主権国家への最初の侵略行為「江華島事件」から日清、日露戦争を経て、韓国併合に至る朝鮮に対する日本の植民地支配の歴史を1章〜6章にまとめてあるが、著者の歴史哲学は明解に記述されている。1875年の江華事件について「 の場合もそうであるが、加害者が被害者になりすまして「事件」を正当化する。朝鮮の攘夷政策を逆手に取り、挑発して事をかまえ、砲艦外交によって開国を迫るいつもの筋書きである」(P18)。同じ事、、それ以上の事はその何倍も繰り返されている。1884年、「甲申政変」は、国王主流派の保守派を殺害し、日本の息のかかった開国派を押し立てたクーデターであるが、日本の軍部と日本の公使の手先が直接、王宮に乗り込み、放火、暗殺、偽計の限りをつくした「日本の国家権力が、内政に干渉し、武力介入して政権の交代を計るおぞましい事件」(P68)と記述している。1890年、帝国議会において、山県有朋首相は施政方針演説で「日本の領域にあたる『主権派』の守護と国家の安全に密接に関連する地域、即ち、朝鮮の『利益線』の保護を国家方針としてかかげ『利益線』確保の為の国力・軍事力の増強を強調した。ここに日清戦争は予告されたのである」(P80)。主権国家の領土にまで、日本の「利益線」とする強盗的論理は許しがたいが、日本の天皇制国家は国民のナショナリズムをかき立てながら、1945年までアジアに居座るのである.又、この演説は朝鮮「併合」への彼らの意図を語っている。
国家権力は多くの知識人やマスメディアの反対を取り込むことによって、より万全な体制を作ると著者はいくつかの具体例を上げている。
@「『甲申政変』での襲撃用の武器は福沢諭吉の弟子で、漢城ハングル新聞「漢城旬報」を刊行していた井上角五郎が輸入したもの」(P65)。
A「福沢諭吉が主宰する『時事新報』などが煽り立て、国内に浸透した日清対決」(P78)。1885年、福沢は「脱亜論」を発表しているのである.
B「朝鮮併合(1910)、『東京朝日』をはじめ、全ての新聞雑誌が併合を美化、正当化した」(P225)。
C「新聞・雑誌にもまして、国民に大きな影響を与えたのは、国民教育を通じての朝鮮蔑視観と朝鮮民族抹殺、日朝一体化論の注入である。その先頭にたったのが歴史学者だった」(P227)。
著者が歴史学者として朝鮮と日本の歴史に於ける過去の歴史学者の行動を、はっきりと 比判すると言うことは、それぞれの時代に生きる人々が(学者に限らず)、その持ち場において支配者の行動に批判する力を持たない時、彼らが作る歴史に加担することになるのだと、自戒をこめて語っている。
2003年10月29日、毎日新聞は東京都知事・石原慎太郎が「拉致問題解決を訴える━救う会」の「基調演説」での発言を伝えている。「1910年の日韓併合は朝鮮人の総意で選んだ。日本が武力侵略したのではない。朝鮮半島が分裂してまとまらないから、ロシアか支那か日本か、どこを選ぶかとなって日本を選んだのだ」と述べた。1905年、「第2次日韓協約」は、1910年の「併合」に先だって朝鮮を日本の「保護国」と位置付け、朝鮮政府を切り離して行く日本政府の策略であったが「アフリカの植民地支配に等しい」(P158)。終止条約の承認を拒んだ王、しかし欧や反対する大臣に対して、王宮前や目抜き通りの鐘路で演習と称して、日本の歩兵・騎兵・砲兵が示威を行い、王宮内でも(慶雲宮)日本兵があふれ、伊藤博文は『余り駄々を捏ねる奴だったら殺してしまえ』と大きな声で言った(P161)。暴力団以下ではないか。石原都知事は1000万の東京都民に選ばれた知事らしいがまじめな歴史の勉強をしてもらいたいのも。
著者は民衆の運動について、少しユニークな見解を述べている。「東学党の乱」と称せられる農民戦争と全州に”執網組織について記述している。「政治的・軍事的・社会的権力として、農村コミューンを形成」したと位置づけられる。地域的にしろ「国家権力の分裂・二重化は、権力の移行過程に表れる権力の二重化である。(P88)という1871年3月〜5月の72日間、パリの労働者階級がジャコバニストやブランキストの下に結集、ベルサイユのブルジョア政府に対抗して「階級支配の撤廃教会と国家の分離・常備軍の廃止」を揚げ、史上初の労働者階級の政府を作ったが「コミューン」という言葉は、このパリコミューンから来ているのだろうか。1789年に王制を倒し、ブルジョアジーが権力を獲った後のプロレタリアートの権力と、李朝末期封建制の下での農民の運動とは盾的に異なるが、しかし全州を制圧した「執網所組織」は「封建身分の否定」・「封建的収奪の制限」・「土地の平均分作」など、「革命的綱領」をかかげ、民衆の支持を得た。(P87) 李王朝と朝鮮政府の下での封建支配に対する農民の争いは、侵略者日本に対する民衆の政治的・軍事的反乱として発展して行った。日本の朝鮮侵略の過程で、巨大な民衆の運動が存在した事を正しく評価する事は、歴史の分析で、最も必要な事である。(李王朝及び日本の朝鮮侵略過程での経済的収奪等の分析は、山辺健太郎「日韓併合小史」(岩波新書・1966年)がずっと詳しい。「歴史小説家」司馬遼太郎は「対談・中国を考える」(文春刊・1978年)で次のように言う。「普通、教科書に言えば、明治27年の初期、東学党と言うナショナリズムが朝鮮に起こって、これは朝鮮の近代史前夜の苦しみの上から、重要にみる事も出来るし、軽く見る事も出来る。東学党の言っている事は、新興宗教みたいな事を言っているだけで正体がよく分からないままポシャった」(P143) 巨大読者を持つ歴史作家は、正しい歴史化を押しのけて、歴史を大衆にすり込んでいく。彼の日露戦争をとり上げた「坂の上の雲」(文春・全六巻)は戦争についても、天皇制についても、国家主義とどう違うのかわからない。彼の歴史哲学を批判する人があまりいなのは何故だろう。 (柴野貞夫)
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